初級 ビジネスコンプライアンス 第2版: 「社会的要請への適応」から事例理解まで




はじめに

近年、企業不祥事や事故によって、会社の社会的信用が著しく損なわれ、場合によっては破綻にまで追い込まれるケースが後を絶ちません。そうした数々の事件の影響により、社会全体に、不祥事を起こさないためにはひたすら法令を遵守することが大切だという誤解が生み出され、企業活動ひいては経済社会そのものが萎縮してしまっています。「コンプライアンス」=「法令遵守」という考え方のもとで、「何が何でも法令に違反しないこと」に意識が向けられすぎているのです。

しかし、経済活動、企業活動は、おとなしくじっとしていることでは成り立ちません。そして、いくら上から下へ「法令を遵守せよ」「違法行為をするな」と命令しても、問題の根本的な解決にはなりません。不祥事を起こさないよう身を縮め続けてばかりいては、経営は成り立たなくなるでしょう。また、問題を解決しないまま放置すれば、身を縮めるのをやめて再び動きはじめたとたんに、不祥事が起こることになるのは目に見えています。問題を解決するには、コンプライアンスを「法令遵守」ではなく、「社会的要請への適応」ととらえることが必要です。

「法令遵守」を否定することは、決して「法令」を軽視することではありません。企業活動に関係する法令を体系的に理解することは「社会的要請」を把握するのに不可欠です。コンプライアンスを正しくとらえ、法令を基本的かつ体系的に理解することで、個々の社員の力を組織のパワーに変えることができるのです。

本書は、「ビジネスコンプライアンス検定」上級編テキスト『企業法とコンプライアンス』に続き、初級編公式テキストとして作製したものです。従来の「倫理法令遵守」を中心とするコンプライアンスの考え方から、「社会的要請への適応」へと大幅な改訂を加えました。そして、企業活動に関係する法令の基礎的かつ体系的な理解を得るべく、第2部「ビジネスコンプライアンスと法・ルール」において企業法の各論にも力を加えています。このテキストを学ぶことを通して、「社会的要請への適応」を貫徹し、この困難な状況から飛躍する企業が増えていくことを期待しています。

鄉原 信郎

郷原 信郎 (著)
出版社: 東洋経済新報社; 第2版 (2019/5/24)、出典:出版社HP

初級 ビジネスコンプライアンス 第2版――目次

はじめに

第1部 コンプライアンスの基本論・総論

第1章 コンプライアンスの基本
【1】 コンプライアンスとは
【2】 コンプライアンスと法
【3】 日本におけるコンプライアンス

第2章 コンプライアンスの基本的手法
【1】 フルセット・コンプライアンスの5要素
【2】 各要素の相互関係
【3】 コンプライアンスによる問題解決の前提
【4】 コンプライアンス環境マップ

第3章 コンプライアンス違反に関する責任
【1】 コンプライアンスと制裁・責任
【2】 社内規程違反
【3】 法令違反
【4】 各種法令違反に対する刑事罰制度
【5】 行政上の制裁措置
【6】 その他の行政上の不利益的措置

第4章 法令その他のルールの基本的役割
【1】 法令その他のルールとは
【2】 法令の制定過程
【3】 法令の構造
【4】 コンプライアンスに関連する法令(企業法)

第2部 ビジネスコンプライアンスと法・ルール

第1章 国の組織や統治の基本原理・原則を定める根本規範
【1】 憲法

第2章 事業活動におけるコンプライアンス
【1】 民法
【2】 会社法
【3】 独占禁止法
【4】 著作権法
【5】 特許法
【6】 商標法
【7】 不正競争防止法
【8】 金融商品取引法
【9】 個人情報保護法
【10】 名誉権、プライバシー権、パブリシティ権
【11】 環境法

第3章 消費者に対するコンプライアンス
【1】 消費者基本法
【2】 消費者契約法
【3】 特定商取引に関する法律(特定商取引法)
【4】 割賦販売法
【5】 製造物責任法
【6】 消費生活用製品安全法

第4章 従業員に対するコンプライアンス
【1】 労働法
【2】 公益通報者保護法

第5章 インターネットとコンプライアンス
【1】 電子商取引に関する法律
【2】 不正アクセス禁止法
【3】 プロバイダ責任制限法
【4】 特定電子メール法

第6章 刑法とコンプライアンス
【1】 刑法

ビジネスコンプライアンス検定の概要

郷原 信郎 (著)
出版社: 東洋経済新報社; 第2版 (2019/5/24)、出典:出版社HP

PART 1 第1部
コンプライアンスの基本論・総論
CHAPTER 1
第 1 章 コンプライアンスの基本

【1】 コンプライアンスとは
1 「コンプライアンス」という言葉の意味
我が国では、コンプライアンスの訳語として、「法令遵守」が用いられることが多くなっています。これは、complianceの訳である「法令などを遵守すること」をそのまま短縮したものです。このような訳語がよく使われるようになったのには、「自由競争と法令遵守の組み合わせですべてが解決する」という考え方が影響しているのではないでしょうか。最近の経済構造改革、規制緩和の流れの中で、企業は自由に活動すればいい、自由に競争すべきだという考えが強くなり、「企業の目的は法令に反しない範囲で利潤を追求することなのだ」と単純に割り切る考え方が広まったのです。この考え方自体は、間違ってはいません。明確なルールがある社会の中で、そのルールの範囲内でベストを尽くした人や組織がベストのリターンを得ることができるというあり方は合理的といえます。
しかし、後で述べるように、日本の成文法制度・司法制度のもとではその考え方が妥当しません。しかも、「法令遵守」という言葉が独り歩きしたことによって、コンプライアンスに対する誤解が生じています。「法令さえ守ればよい」「どんな細かいことでも法令に反してはならない」とする考え方がそれです。
そうした中で、「コンプライアンスは法令遵守ではない」という言葉が聞かれるようになってきました。これは、先の「法令さえ守ればよい」という考えに対して、「企業は法令を遵守しているだけでは不十分である。それ以上のもの、社内規則、社会規範、企業倫理すべてを遵守することが求められている」とするもので、「法令」に加えて「企業倫理(経営倫理)」を守らなければならないとする考え方です。この考えでは、コンプライアンスは「法令遵守」と「企業倫理遵守」の両方ととらえ、「倫理法令遵守」という言葉で表されます。この考え方も、何かを「守る」「遵守する」という意味では、コンプライアンスを「法令遵守」とする考え方と同様です。

これらの考え方に対し、コンプライアンスを「遵守」という意味で理解すること自体を疑問視し、「法令」の背後に存在する「社会の要請」に着目する考え方があります。
本来、コンプライアンスという言葉は、「法令」のみに限定して使用されるものではありません。
また、コンプライアンスには、「遵守」という日本語に含まれる「文句を言わずにひたすら素直に守る」というイメージとも異なる意味合いがあります。例えば、医療の世界では、患者に医薬を正しく服用させることを、服薬コンプライアンスといいます。
さらに、complianceの派生元であるcomplyは、語源をさかのぼると「充足する」「調和する」という意味を持っています。
したがって、コンプライアンスは「外部からの要請を充足することで外部との調和を図ること」を意味すると考えるべきなのです。
なぜなら、企業は、社会の中にあって社会とともに成長していくべき存在です。企業は、社会からの要請を敏感に感じ取り、それに柔軟に応えていくことによってはじめて、社会と一体となって発展していけるのです。そのためには、あらかじめ定められた「法令」を無条件に「遵守」するのではなく、なぜその法令が定められているのか、その背後にある「社会的要請」をくみ取り、応じていかなくてはならないからです。
「法令」は何らかの「社会的要請」を満たすために定められています。「法令」を遵守するのはもちろんですが、それ自体に意味があるのではないのです。「法令」の背後にある「社会的要請」に応じることが重要なのです。

2 CSR論との関係
CSR(Corporate Social Responsibility)論とは、「企業が果たすべき社会的責任」と訳され、企業は社会的存在として、最低限の法令遵守や利益貢献といった責任を果たすだけではなく、市民や地域、社会の顕在的・潜在的な要請に応え、より高次の社会貢献や配慮、情報公開や対話を自主的に行うべきであるという考えのことです。
先進国では社会が豊かになるにつれて、経済的成長以外のさまざまな価値観が育まれ、企業評価として、法律や制度で決められた範囲に限らず「より良い行動」をすることが望ましいとする傾向が生まれています。そして、企業がこうした社会的要請に応えることによって、社会的行動の不足や欠落が招くリスクを回避するとともに、社会的評価や信頼性の向上を通じて経済的価値を高めることができると認識されるようになってきているのです。
典型的なCSR活動としては、「地球環境への配慮」「適切な企業統治と情報開示」「誠実な消費者対応」「環境や個人情報保護」「ボランティア活動支援などの社会貢献」「地域社会参加などの地域貢献」「安全や健康に配慮した職場環境」などがあります。
したがって、コンプライアンスを「法令遵守」とする考えに基づけば、コンプライアンスはCSRより「狭い」概念として、CSRに含まれるものであり、コンプライアンスを超えたCSRの固有の領域が存在することになります。
また、コンプライアンスを「倫理法令遵守」とする考えに基づいても、コンプライアンス領域の広さが異なるだけであって、CSRはコンプライアンスを超えたものであることに変わりはありません。

これらの考え方によれば、企業が社会的責任を果たしていくというCSRは企業経営全体、すなわち企業の「意思決定」にかかわるものであり、コンプライアンスはそのうち、法令や倫理を遵守するという部分のみを意味するものになります。この場合、法令を遵守しない経営上の「意思決定」や、企業倫理に反する内容の経営上の「意思決定」をするということは、健全な事業を営む企業であればあり得ないので、コンプライアンスは、経営上の「意思決定」とは別のものだということになります。結局、コンプライアンスは、企業として当然やらなくてはならないことにどれだけ真剣に取り組みコストをかけるかという、事業遂行上の「コスト」の問題ということになるのです。
これに対し、コンプライアンスを「社会的要請への適応」と理解する考え方によれば、「企業が果たすべき社会的責任」としてのCSRは、コンプライアンスとほとんど重なることになります。この考え方においては、コンプライアンスは経営上の「意思決定」と深くかかわります。企業は社会的要請に応えていくことによって収益を確保し、社会で活動することができるのであり、健全な事業を営んでいる企業にとって、コンプライアンスの問題と経営とを切り離すことはできないからです。企業として、法令に適応していくことを通して「社会的要請に適応していくこと」は、重要な経営上の「意思決定」の問題だということです。

3 メセナとの関係
メセナ(mécénat)は、フランス語で「文化の擁護」を意味します。企業におけるメセナとは、企業が資金を提供して文化、芸術活動を支援することで、日本では、本業に余力のあったバブル期に特に流行しました。代表的なものに、財団などを通じた資金的バックアップや、企業が主催するコンサートやオペラの公演、スポーツなど各種イベントの開催などがあります。
コンプライアンスやCSRが企業の責任に関する領域についての考え方であるのに対して、メセナは企業の責任の範囲外の問題について社会に貢献するための活動です。
したがって、企業がコンプライアンスやCSRを怠れば、社会的批判や非難を受けることもあり得ますが、メセナは、企業がそれを行うことによって社会的評価を受けることはあっても、行わなかったからといって非難されることはありません。
この点において、メセナとコンプライアンスは大きく異なります。

【2】コンプライアンスと法

1 司法とコンプライアンス
コンプライアンスを「法令遵守」とする考えに基づくと、コンプライアンスの問題は司法の問題となり、最終的解決は司法制度によることとなります。そうすると、司法制度による解決を図った場合にどのような結果になるのか、すなわち、法的責任が発生するかどうかと、それに対する司法の判断が重要な問題となります。そして、法令に定められていないことは、コンプライアンスとは切り離されることになります。この考え方では、企業の目的は法令に違反しない範囲で利益を図ることになり、この考え方を推し進めていくと、企業は法令に反しない限り何をしてもよいことになってしまいます。

郷原 信郎 (著)
出版社: 東洋経済新報社; 第2版 (2019/5/24)、出典:出版社HP