日本の伝統 発酵の科学 微生物が生み出す「旨さ」の秘密 (ブルーバックス)




はじめに

古典的なフランス料理の一品スズキのパイ包み焼きは、大きなスズキを丸ごとパイ生地に包み、リアルな魚の形に成形して焼き上げた料理であり、ねっとりしたモルネーソースで味わう。非常に見栄えがするため、客をもてなすために家庭でもよく作られる。立派なスズキが入手できると、欧米の人々はこのような料理が念頭に浮かぶようである。

さて、イキの良いスズキが手に入ったとき、日本人ならばどのようにして食べたいだろうか。筆者の頭に真っ先に思い浮かぶのは刺身である。大きめに切り揃えたピンク色の刺身に、わさび醤油をチョンとつけて食したいと思う。フランス料理を侮辱するつもりは毛頭ないが、せっかくのスズキに凝った調理はもったいなく感じてしまう。

スパゲティカルボナーラは、塩漬けの豚肉とパスタをねっとりと鶏卵でまとめた料理であり、素朴な味わいがピリリと黒胡椒で引き締められた一品。卵黄を固めずに火を通すには熟練の手並みが必要で、イタリア料理学校の卒業試験に使われることもあるという。このようなまったりとした麺料理も悪くないが、ちょっと腰のある蕎麦をつゆに漬けて薬味を利かし、ズルズルッと行くのも捨て難い。

ふんわりと焼き上げられたオムレツは西洋料理の基本中の基本中にハムやチーズを入れたり、ソースをかけたりとバラエティーも豊かで、レストランでも家庭でも世界中で愛されている味である。しかし白状すると、筆者はシンプルに醤油を垂らした卵かけご飯を無性に食べたくなることがある。さらに味噌汁と少々の漬け物でもあれば十分幸せ。

刺身、蕎麦、卵かけご飯など、日本以外の国ではほとんどお目にかかることさえできない。では、日本人はどのような食べ物が好きなのだろうかと改めて考えると、肉や卵、魚や野菜などの素材の旨さを素直に引き出した料理ではないかと思える。

南北に長い日本列島は山がちで森林に覆われ、地下資源にも乏しく、わずかばかりの平野に人々がひしめいて暮らしている。土地利用効率が悪く、貧しい国土に見えるがそうではない。四季がはっきりしていて、日照も降雨も適度にあるため、少々の酸性雨くらいでは森林も湖水もびくともしない。夏場に水が手に入るので、ほぼ全土で稲が栽培可能な、極めて恵まれた「瑞穂の国」なのである。さらに北西太平洋の一角を占める日本近海は世界有数の好漁場であり、気前よくさまざまな魚を提供してくれる。

地下資源以外の天然資源に恵まれた日本は、自然災害も極めて多い。世界の0.25%の国土面積に、全世界のマグニチュード6以上の地震の20.5%が集中する地震大国である(平成22年度版内閣府防災白書)。さらに、津波は来る、台風は来る、火山は噴火する、洪水が起こり、ゲリラ豪雨による土石流も発生する。先進国でこれほどまでに自然災害の多い国もないだろう。

そのような国土に暮らす日本人は、自然の恵みを享受し、自然災害は宿命として生きていくうちに、自然を敬い、自然を畏怖する心を育んできたと考えられる。四季折々の年中行事と、各地の産物の素材を生かした料理は、このような風土の下に生まれてきたのだろう。

素材の旨味を引き出す名脇役である調味料の多くは、微生物の力を借りて作られる発酵食品である。「さしすせそ」と覚える日本料理の基本調味料は、「さ」砂糖、「し」塩、「す」酢、「せ」醤油、「そ」味噌の5つだが、そのうち「す」「せ」「そ」の3つが発酵食品である。さらに、漬け物はもちろん、納豆、鰹節、清酒、さらに旨味調味料の製造にも微生物の力は欠かせない。

発酵食品については、主としてその製法と文化的な観点から多くの研究がなされ、膨大な書籍が刊行されている。食品は純粋な物質ではないうえに、発酵の工程では必ずしも単一ではないさまざまな微生物が関与することから、科学の視点では発酵食品は難しい研究対象である。

現代の技術により解析を進めるにつれて、さまざまな発酵食品の製造工程がいかに理にかなったものであるか次々に明らかになっているのが現状であり、このような発酵食品を生み出した人々の英知に改めて畏敬の念を覚えることも多い。

本書では、このような発酵食品について科学的な側面から可能な限り簡明に解説していく。

もくじ・日本の伝統発酵の科学

はじめに

第1章 発酵食品と文化
風土に根ざした発酵食品
食料の保存から生まれた発酵技術
発酵で旨味を引き出す
発酵が栄養吸収を助ける

第2章 発酵の基礎知識
発酵の化学
呼吸と発酵―生命がエネルギーを作る2つの仕組み
人類が育てた発酵技術
発酵と腐敗を分けるもの
味覚の科学

第3章 発酵をになう微生物たち
文明と料理
日本文化と和食
麹菌―カビで発講する
カビの生態/クモノスカビの餅麹と麹菌のバラ麹/毒を作らないカビ/日本人が飼いならした麹菌/日本の「国菌」/麹菌という微生物/光を感じる麹菌/黒麹菌と焼酎/コウジ酸と美白化粧品
乳酸菌
乳酸菌の生態/微生物の分類と命名/歯株の話/抗菌ペプチド、ナイシン
酵母
酵母の生態/酒造りとパン生地への利用
微生物と食品の安全性
グルタミン酸生産菌/ボツリヌス菌中毒の脅威/殺菌と滅菌―消費期限と賞味期限/発酵食品の中の微生物の運命

第4章 納豆・味噌・醤油—大豆発酵食品と調味料
納豆
各国の大豆発酵食品/納豆菌/納豆の製法/ネバネバ成分の正体/納豆菌で高まる栄養価/藁苞納豆/納豆の匂いと納豆菌の育種/納豆の食べ方/塩辛納豆/テンべ/臭い食べ物の話/悪臭化合物
味噌
味噌の歴史と分類/味噌の製法/手作り味噌/耐塩性酵母と好塩性乳酸菌/味噌の色とメイラード反応/味噌の栄養価と効能/出汁と味噌汁
醤油
調味料の王様/魚醤/醤油の種類/醤油の製法/塩慣れの話/醤油の香気成分/機能性醤油の新技術

第5章 乳酸菌発酵食品
漬物
漬物の分類/糠漬けの製法と手入れ/漬物の安全基準/日本の漬物/海外の漬物/馴れ鮓の話
ヨーグルト
牛乳タンパク質凝固の原理/ヨーグルトの製法/機能性食品/腸内フローラ/プロバイオティクス
チーズ
チーズの種類と製法/凝乳酵素をめぐって

第6章 ひと味加える調味料と小麦生地の発酵
食酢
単発酵と並行複発酵/食酢の種類/酢酸菌の働き/食酢の製法/奇跡の福山黒酢/食酢の調理効果/食酢を用いた調味料/注目される食酢の機能性
みりん(味醂)
本みりんとみりん風調味料/みりんの製法
鰹節
鰹節の製法/鰹節の成分と利用法
デンブン生地の発酵
麦はなぜ粉にするか/デンプンのアルファ化/パンの製法—直捏法と中種法

おわりに